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2006-04-25

「意志あるデータベース」という誤訳

Intentionに関して、高広伯彦さんが、John Battelleの著書 "The Search"(邦題はザ・サーチ)の邦訳において誤訳があると指摘している。"The Database of Intentions"に「意志あるデータベース」という語を当てたことに異を唱えたのだ。「意志あるデータベース」は、第一章のタイトルであり、この本の中心テーマでもある。高広さんは、「意志あるデータベース」という言葉に接して「データベースそのものが意志をもつわけではない」、「まるで人工知能か何かのように」訳されているから誤りであると言っている。 そして、その証拠としてJohn Battelle自身のブログから、The Database of Intentionsの定義を引用して、この定義からすると「意志の(集まった)データベース」とするのが正しい、と断じた。「データベースが意志をもつ」なら確かに誤りなのだが、私は「意志あるデータベース」はその操作的な定義さえ正しければ、「意志のデータベース」の代替表現としても認められるのではないか(かなり苦しいが)、と思っていたので、そのあたりの本質的な誤りがあるのか否かちょっと気になって調べた。

引用を再掲すると;
The Database of Intentions is simply this: The aggregate results of every search ever entered, every result list ever tendered, and every path taken as a result. It lives in many places, but three or four places in particular hold a massive amount of this data (ie MSN, Google, and Yahoo). This information represents, in aggregate form, a place holder for the intentions of humankind - a massive database of desires, needs, wants, and likes that can be discovered, supoenaed, archived, tracked, and exploited to all sorts of ends.

原典を持っていないので、上の定義がそのまま著書に出てくるかどうか再度確認が必要なのだが、日本語版p15でほぼそのまま同じ文章を訳したのではないか、と思われる箇所がある。

すなわち;
意志あるデータベースとはつまり、実施された検索、結果として出てくるリスト、たどったパスの総体である。この意志を持つデータベースはどのサーバーにもあるが、中でもAOL、グーグル、MSN、ヤフーのデータは膨大で、すべてを合わせるとその情報は、ウェイブ文化発祥以来のリアルタイムの歴史を見せてくれる。あらゆる欲望・要求・願望・好み選択がクリックの大河となって殺到し、発見され、召還され、補完され、探知され、さまざまに活用され、そしてデータベース化される。(強調筆者) 確かに「意志を持つデータベース」と訳されている。原文を見ると、"It lives in many places"のItだ。誤解にもとずいて意訳されている可能性が極めて高い。だから、高広さんの指摘は正しかったのだ。確かにデータベースそのものは意志をもつわけではない、そして人工知能そのものではない。ただ、Battelleは「意志のデータベース」を素材として検索エンジンは人工知能になり得る、と考えている。

それにしても、翻訳という作業は大変だなあ、と改めて思った次第。
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2006-04-19

AttentionとIntention

Attention Economy論は、つまるところ人間にとってAttention(注意)が有限の資源だという認識のもとに、それをどのようにコントロールするかあるい はできるか、ということである。物理的には人が使える時間という有限の資源があり、その時間に連なる形でAttentionが考えられている。仮に使える 時間が無限なら、Attentionも無限になる。ただし、時間は一人の人間にとって同時に複数持ち得ないものであるが、Attentionは(ほぼ)同 時複数的に持つことも仮定できるし、濃淡(あるいは強弱)も設定できる。時間軸に応じて変化することも仮定できる。

従来のコミュニケー ション論でも、Attentionをどのように獲得するかは主要な課題の一つであった。例えばAIDAという広汎に流布しているコミュニケーションモデル もまずはAttentionを獲得するか、ということからスタートする。(注: AIDAは、消費者行動を、Attention-Interest-Desire-Acquisitionの4つのステージの順に設定したもの。)

こ こに来て、Attentionがとりわけ多くの注目(これもアテンション)を集めているのは、インターネットが日常生活に入り込み、従来のマスメディアに 加えて日常の情報チャネルとしての機能が増えたことに関連している。インターネットという情報チャネルでは、膨大な情報が流通していながら、誰かが情報を 整理統合して伝えてくれるものではなく、自ら情報を選別、取得することが程度の差はあれ、必要になってくる。

そこで、Attention Economyを議論する中で、Intention(意志、意図)により注目すべきだという考え方も出てきているようである(例えば渡部聡さんのコラム)。

感 情の変化を含めた行動変容を起こすという点から見れば、確かにそれは間違いではない。しかし、IntentionをAttention問題に加えることに 関しては、私は慎重さが必要だと思っている。結論から言うとAttentionはAttentionであり、InterestはInterestである、 つまり両者は同じではなく別物であり、どちらが重要かということではないのである。先のAIDAモデルからすると、購買に繋がる距離(時間的近さ)からす れば、確かにIntentionが近い。

しかしIntentionは、最初からある人の中で内的に生成される、ということでは必ずしもな いのである。これがAIDAモデルの重要なポイントで、もともとある人にとって価値のない情報に注意が向き(あるいは向けさせ)、その情報の価値が高まる (高める)ことで、その人がある行動を起こす(起こさせる)ということを仮定している。例えば、電車を降りてなんの気無しに歩いていたら、ふと赤提灯が目 に入り(Attention)、今日は時間もあるし酒を飲んでもいいなあという関心が向き(Interest)、もう一件から香しい焼き鳥のにおいが鼻を ついた(Attention)とたんに、どうしても酒が飲みたくなり(Desire/Intention)、のれんをくぐる(Acquisition)な るといった具合で、最初から酒を飲もうと決めて(Intention)電車を降りるかどうかはわからないのである。

すでに形成されたIntentionを刺激するか、AttentionをIntention(Desire)に変えるかは、両方ある、と考えるのが正しいのではないか。

Attention Economy論が新鮮なのは、Attentionというものを単にステージと考えずに、量的側面をもった資源だと規定したことにある。それゆえ、チャネ ルの使い方、送る情報のインパクト、量に対して情報処理系としての人間を新たな視点で捉えられることができる。その認識をもち、Attentionの資源 配分あるいは獲得戦略を充分することはとても重要なことだと思うのである。Intentionにもこうした有限の資源という視点は与えられる。しかし、 Attention以上にIntentionの様相は多岐にわたるように思えるのである。だから、AttentionとIntentionは分けて考える べきだ、というのが私の考えである。Intentionを念頭に置きつつも、考察を一緒くたにしない方がいいと思う。

なお、 Intentionに焦点を当てた議論は従来のコミュニケーション論の枠組みの中では、Value System(価値体系)あるいはそれらを内包したライフスタイル論に集約されると考える。つまり、ある人がある主題に対してどのような意志や意図、あるいは意識で捉えるかは、その人の持つ価値観や暮らしのスタイルが影響するだろうと仮定する。だから、人々をいくつかのタイプに分けて、というやり方をと る。しかし、Intentionここに量的資源という視点を与えるとどうなるのか、これはこれで興味深い。

2006-04-19

オンラインブランディング広告効果測定と可視化

アウンコンサルティングの伊藤さんが「ネット広告の効果はすべて可視化できるのか」という問いを発している。彼の主張は概ね正しく、ブランディング効果は 測定困難(可視化が難しい)といえる。ただ、そこで使われている「可視化」という言葉は曖昧である。「測定」と言うべきではないだろうか。

「可視化が困難である」ということは、「効果を視覚化することが困難である」ということに他ならない。しかし、本当に困難なのは、効果を測定することにあると思う。「測定」するためには「測度」が必要となる。「測度」というモノサシがあって初めて何を測っているかがハッキリするのである。「ブランディング効果」の定義を行い、その定義に沿って測度を決め、その測度によって測定が可能となれば、可視化は容易なはずである。しかし測度があっても測れない場合も、測度が決められない場合も、ブランディング効果なるものの定義できない場合も、いずれによっても「ブランディング効果の測定」は不能である。効果が測定できない以上は可視化は不可能である。

ついつい誤解されがちなのだが、マスメディアと異なりWebは広告訴求対象者である消費者の行動追跡がしやすく、広告効果は容易に測定できると思われてしまう。

「可視化」と「測定可能性」の包含関係について、私は「可視化」は「測定可能性」に含まれると考えている。伊藤さんがこの二つの言葉を使い分けているのは、あくまでブランディング広告の効果は測定可能だという暗黙の仮定がそこにあるからではないだろうか。

行動の追跡がしやすくとも測れないものは測れない。繰り返すが、ブランディング広告の効果を測定するためには、ブランディング広告とは何か、という定義(操作的定義も含む)がまずもって必要なのである。何を測定しているのかを特定することは案外難しい。
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